園島義船、ぷるっと企画の活動日誌DX

ぷるっと企画の活動日誌。
漫画、イラスト、ゲーム、小説の情報を掲載。
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今日、明日は更新しない、かも

 すでに今日アップできる分は書いてあるのですが、ここで一回インターバルを取ろうかと思います。


 べつに毎日更新は、さほど苦ではないです。ただ、更新をやると、やっぱり三回は文章を確認しながら肉付けをしていかねばなりません。その手間があるのは事実なので、そうすると一気に先を書くというのはできなくなります。


 まあ、もうクライマックスなので、基本的に今までの伏線の回収をするだけですから、その意味では楽です。あとは、それをいつのタイミングでやるかだけの話です。


 連載を開始した直後、特にMGの転移を出したときから、昨日アップした内容は考えていたのですが、考えた当時は「ちょっと強引かな」と思いつつ、今までの積み重ねがあるので重みが出てよかったです。


 その案も、一年半以上前のものなので、私からすれば「ようやく出せたか」という感じではありますが・・・


 あとはどのタイミングでやるか。五部の最初にいきなりやると、緊迫感がちょっと薄れてしまうので、昨日のタイミングで発生させました。あれならば、戦闘の緊張感を維持したまま会議場の話にもっていけます。


 ただこれもちょっと想定外のことはありました。重みを出すために、本当はゼッカーとハーレムとの会話で出そうと思っていた、ガロッソの理想を使ってしまったことです。これはたしかに最初に想定したことではなかったのですが、私の中でハブシェンメッツがどんどん大きくなっていったのでしょう。それだけ付き合いも長くなった、ということですね。


 ふと思ったのが、「これがアニメだったら、ちょっと白けるかも」とかは思いましたね。アニメって、小説みたいに細かい描写がほとんどないので、原作を読んでから楽しみにしていたアニメも、「なんだか簡素でそっけないな」という印象を受けてしまいます。原作を読めば読むほど、物足りなさを感じてしまうものなんですよね。


 なので、十二英雄伝も、やはり小説で楽しむのが一番なのだと思いました。ゲームでも、あの雰囲気は出ないと思います。やはり小説は小説なのでしょう。何事も原作が一番良いとは、よく聞くことですし。


 とりあえず執筆はいつもの通り続けつつ、二日くらい更新は休もうと思います。毎日楽しみにしてくれている人がいる・・・かは完全なる謎ですが、一気にナサリリスのところを書き上げて、少し余裕を持とうと思います。


 本当は毎日更新の緊張感があったほうが、ダレなくてよいのですが、どうせ長くは続かないものです。絵の仕事が入ると、またちょっと更新が遅くなりますからね。そのあたりも考えて調整したいものです。



 それに、やはり人間は、死を覚悟して生きたほうが生活が充実してよいと思いました。


 私はずっと、そうやって生きてきた人間です。だから、正直にいってここ七年くらいは物足りなかった。死の危険性の実感、それが隣り合わせでないと、どうにも燃えないのです。


 ほんと、この七年は「死に損なった落ち武者」のような気分でした。関ヶ原の戦いで燃え尽きようとしていたのに、あっという間に終わって取り残された武将の気分がよくわかります。そんな感じのむなしさと物足りなさがあったわけです。


 日々、死を望み、死を覚悟して生きるからこそ、自己は何も求めず、正しいと思えることをやれます。たいしたことをしない人に話を聞くと、ほぼ大半の人が「明日死ぬなんて、あるわけがない。まだ何十年も先だよ」と言います。それを聞くと、なんて愚かなのだと哀れみさえ浮かんできます。


 生き残るのは、結果にすぎません。闘ったあとの結果です。それは日々、全力で戦ったあとに残ったものです。そして、未来の結果を見据えるからこそ、今を生きられるわけです。それは自分だけの未来ではありません。人々の未来、地上人類が今後どうなるのか、どうなりたいのか、どうなるべきかを見定めたものです。


 そうした想いを宿すからこそ、自分が死ぬ可能性を常に考慮しつつ、何十年、何百年、何千年先の未来を考えられるのです。仮に自分が死んだとて、その先につながるものがあると知っているからです。感じるからです。知識と体験と直感によって、神を見いだすからです。


 死は甘美であり、人は死ぬために生きています。それは霊として、この地上で自らの使命を果たすために全力を尽くしたいと願うからです。その日がくる瞬間まで、闘わねばと思うからです。そして、自身の想いに素直であるために、高潔であるために、そうした覚悟を宿すのです。


 緩慢な人生は、人を堕落させます。激情の人生は、人を殺します。されど、心に宿す熱い想いがあればこそ、見た目はまったく静かでありながらも、激しい闘争の日々を勝ち抜くことができるのです。









十二英雄伝 80話 22時アップ予定

 です。


 ナサリリスと順番にやろうと思ったのですが、ナット兄弟とリヒトラッシュのところを、今回と次で連続してやって終わらせてしまう予定です。


 今は毎日のように更新しているので大丈夫ですが、時間が経つと予定していた展開を忘れそうになるので、私が忘れる前にさっさとやってしまおう、というわけです。


 それからナサリリスのところを二話か三話やって、次から「剣王と剣聖」に入ります。まあ、残り二つと志郎のところが何話になるかわかりませんが、九十話後半、あるいは百話になるかもしれませんね・・・


 しかし、せっかくの百話だったら、いつもより文字数を書いてもいいので、なんとか合わせて第五部の始めあたりにもっていきたいものです。


 第五部は・・・どれくらいでしょう。さほど長くはないと思いますが・・・シャーロンやアダ=シャーシカの出番もあるので、やっぱりちょっとは長さが必要かもしれません。


 この前、百万文字に到達したと喜んでいたら、気が付いたらもう120万文字間近(今回の更新、アルファポリス版)ですから、毎日アップしていけば、まずは一つの大きな目標である一千万文字もあっという間かもしれません。


 ・・・いや、あっという間ではないですね。毎日書いたとしても、平均して一日一万五千文字で、一ヶ月でおよそ45万文字ですしね。毎日書けるわけでもアップできるわけでもないですし。でも、現実的な日数です。十分、可能です。むしろ、普通に可能です。


 たぶん、その頃には、多少物語も進んでいると思います。といっても、まだ十二英雄全員が集まっているとは到底思えないので、そこが若干不安ですが。それにインディカルタが出せなかったので、それに伴って、何かしら書かないといけないかもしれません。そうしないとスイレンのイベントが・・・。


 普通に書けば、三千万文字で、ある程度最後までいく予定です。でも、だらだらと書いたり、余計なエピソードを挟むと一億文字になると思います。まあ、もう結末はわかっているので、いつやってもいいとは思っていますけれど。


 結局、バーンや英雄の一人ひとりを主人公格とした場合、それだけエピソードが必要となります。そのあたりですね・・・。でも、どうせ趣味でやっているので、そのまま好き勝手やっていきます。できれば、私の寿命が判明するまで終わらせたくないですね。


 余命一年~半年とか言われたら、最終回のエピソードを書きましょう。


 大丈夫。そんなに長生きするつもりはありません。できれば、あと十年くらいで死にたいものです。


 ゼッカーやシュナイザーたちと一緒に死ぬ。なかなか憧れます。まさに自分の人生を象徴しているようで、最高に熱い瞬間になりそうです。作品を書き終わったら死ぬのが、私の昔からの夢でしたから。うん、楽しみだ。やる気が出ますね。


 いや、本当に想像するだけで涎が出るほど最高の死の瞬間です。クリエイターたるもの、死にざまは、ぜひそうありたいものです。


 あるいは、見ず知らずの子供を助けて死ぬとか、そのどちらか一つを強烈に所望しています。この二つは、小さいころからずっと願っていたので、譲れない想いです。


 でも、下手に英雄的な死に方をして過去を調べられ、ぷる汁を作っていたことが知られるのは最悪なので、できればクリエイターの死にざまを所望します。


 そんな感じです。
 ではまた!









ミスリードの限度

 最近、文章を書いていて思うのが、書くキャラの言動とそれに伴う説明文の内容が、必ずしも一致しない、あるいはミスリード(誤った印象を与えるように意図的に操作する記述)のような状態がどこまで許されるかということです。


 ハブシェンメッツが言ったこと、それに伴う説明文は、あくまで彼の意識内での出来事です。それが真実あるいは事実とは限りません。知的能力値の高いキャラは、けっこうな確率で事実に近いことを言い当てますが、絶対にそうではないこともあります。


 当人が自覚している不確定な情報は、できるだけ「聞いた話によれば」とかいう文言をつけるようにしていますが、説明文がすべて正しいとは限らないのも事実です。


 たとえば、ゼッカーの言動では、「首脳陣の全滅は困る」と言いながらも、「すべてが終わってしまう可能性もある」とも言っています。両者は矛盾しつつも、同じことを指しています。未来という不確定の要素がある中で、必ずしも望み通りの事象が発生するかわからないからです。


 また、当人にも心の葛藤があるので、どちらに転んでも受け入れるという感情もあります。ここで終わってしまったほうが良いのではないかと思いつつ、人類を大戦へと導く役割を果たさねばならない、という責任感もあるからです。


 それ以外にも、キャラそれぞれの意見や感想、「誰々は、それがこうであると気がついた」という文章は、そのキャラがそう思っただけのことです。十二英雄伝の性質上、多くのキャラが出てきて、それぞれの事情で動いていますので、予想外の出来事や当人が知らない事実もたくさんあるわけです。


 同じ現象でも、見た当人の知識の程度によっては、違う表現になることがあります。あくまで自分が知っている知識の中で判断して、それはそうに違いない、と思っているのです。でも、さらに上の知識を持つ人物が観れば(観測すれば)、また違った意味を持つものになりえます。


 そうしたことによって、自然にミスリードのような文章が生まれるのは仕方ないですし、それはそれで面白いと思っています。ただ、今までは無意識でそうやっていたのが、最近はけっこう意図的にそうやることが多くなった気がします。


 やっぱり「うみねこ」を観たせいかもしれません。ただ、ひぐらし(PS2版)の時も思いましたが、あまりやりすぎと「そりゃ汚いよ」と思うことも、しばしばありました。だって、キャラが断言しているのに、あとからひっくり返すというのは、やっぱり「そりゃないよ」という印象を受けますからね。


 その意味において、面白みは残しつつも、あまりやりすぎないようにしないとな、とは思っています。


 まあ、長くやっていると、書いている側も飽きないように色々な楽しみを見いだすので、それがいわゆる「作者の遊び心」というやつでしょうか。ただこれも、たまにレビューで見かける「やっぱりやらかしやがった。クリエイターってやつは、そういう生き物なんだよ! 今までのがよかったのに!」というやつになるのかもしれません。


 なにはともあれ、十二英雄伝は長い物語なので、その時々で色々なことが起こると思います。作風もキャラによっては変わってくるところもあるでしょう。第一章からは、普通のライトノベルのように主人公視点で進められますから、RD事変とはまるで違うものに感じるかもしれませんし、また違う章では目まぐるしく変わることもあるでしょう。


 やっぱり、その時々の「作者の状態」が関わってきそうです。そのときハマっているものの影響を受けるのは、致し方のない現象でしょうか。むしろ、積極的に取り入れようとは考えていますけど。


 今ハマッているものは・・・うーん、特にないですかね。久々にスパロボでもやりたいなーとは思いますが、どうでしょう。アニメもちょくちょく観ていますが、心に強く残った印象的な設定は、まだあまりないですね。


 最近、海外ドラマのウォーキングデッドシリーズを一気観しましたが、あれは特に取り入れる要素がなかったですしね(^▽^;)。クロスボウはいいなーと思いました。賊王街のシェラハが弓を使うので、十二英雄伝でも使い手は出てくると思います。


 そんな感じです。
 ではまた!