園島義船、ぷるっと企画の活動日誌DX

ぷるっと企画の活動日誌。
漫画、イラスト、ゲーム、小説の情報を掲載。
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ミスリードの限度

 最近、文章を書いていて思うのが、書くキャラの言動とそれに伴う説明文の内容が、必ずしも一致しない、あるいはミスリード(誤った印象を与えるように意図的に操作する記述)のような状態がどこまで許されるかということです。


 ハブシェンメッツが言ったこと、それに伴う説明文は、あくまで彼の意識内での出来事です。それが真実あるいは事実とは限りません。知的能力値の高いキャラは、けっこうな確率で事実に近いことを言い当てますが、絶対にそうではないこともあります。


 当人が自覚している不確定な情報は、できるだけ「聞いた話によれば」とかいう文言をつけるようにしていますが、説明文がすべて正しいとは限らないのも事実です。


 たとえば、ゼッカーの言動では、「首脳陣の全滅は困る」と言いながらも、「すべてが終わってしまう可能性もある」とも言っています。両者は矛盾しつつも、同じことを指しています。未来という不確定の要素がある中で、必ずしも望み通りの事象が発生するかわからないからです。


 また、当人にも心の葛藤があるので、どちらに転んでも受け入れるという感情もあります。ここで終わってしまったほうが良いのではないかと思いつつ、人類を大戦へと導く役割を果たさねばならない、という責任感もあるからです。


 それ以外にも、キャラそれぞれの意見や感想、「誰々は、それがこうであると気がついた」という文章は、そのキャラがそう思っただけのことです。十二英雄伝の性質上、多くのキャラが出てきて、それぞれの事情で動いていますので、予想外の出来事や当人が知らない事実もたくさんあるわけです。


 同じ現象でも、見た当人の知識の程度によっては、違う表現になることがあります。あくまで自分が知っている知識の中で判断して、それはそうに違いない、と思っているのです。でも、さらに上の知識を持つ人物が観れば(観測すれば)、また違った意味を持つものになりえます。


 そうしたことによって、自然にミスリードのような文章が生まれるのは仕方ないですし、それはそれで面白いと思っています。ただ、今までは無意識でそうやっていたのが、最近はけっこう意図的にそうやることが多くなった気がします。


 やっぱり「うみねこ」を観たせいかもしれません。ただ、ひぐらし(PS2版)の時も思いましたが、あまりやりすぎと「そりゃ汚いよ」と思うことも、しばしばありました。だって、キャラが断言しているのに、あとからひっくり返すというのは、やっぱり「そりゃないよ」という印象を受けますからね。


 その意味において、面白みは残しつつも、あまりやりすぎないようにしないとな、とは思っています。


 まあ、長くやっていると、書いている側も飽きないように色々な楽しみを見いだすので、それがいわゆる「作者の遊び心」というやつでしょうか。ただこれも、たまにレビューで見かける「やっぱりやらかしやがった。クリエイターってやつは、そういう生き物なんだよ! 今までのがよかったのに!」というやつになるのかもしれません。


 なにはともあれ、十二英雄伝は長い物語なので、その時々で色々なことが起こると思います。作風もキャラによっては変わってくるところもあるでしょう。第一章からは、普通のライトノベルのように主人公視点で進められますから、RD事変とはまるで違うものに感じるかもしれませんし、また違う章では目まぐるしく変わることもあるでしょう。


 やっぱり、その時々の「作者の状態」が関わってきそうです。そのときハマっているものの影響を受けるのは、致し方のない現象でしょうか。むしろ、積極的に取り入れようとは考えていますけど。


 今ハマッているものは・・・うーん、特にないですかね。久々にスパロボでもやりたいなーとは思いますが、どうでしょう。アニメもちょくちょく観ていますが、心に強く残った印象的な設定は、まだあまりないですね。


 最近、海外ドラマのウォーキングデッドシリーズを一気観しましたが、あれは特に取り入れる要素がなかったですしね(^▽^;)。クロスボウはいいなーと思いました。賊王街のシェラハが弓を使うので、十二英雄伝でも使い手は出てくると思います。


 そんな感じです。
 ではまた!








十二英雄伝 79話 22時アップ予定

 ですね。今日の更新は、女尊世界です。


 さて、明日からは、少しヒートアップしていく予定です。ちょっと戦闘をだらだらやろうと思っていたのですが、せっかくなので加速と収束の戦場という題名通り、物語の展開を早めにやっていきます。なので、多少いきなりですが、物語が一気に進みます。


 まあ、もっと伏線を丁寧に回収していってもいいのですが、今までさんざんだらだらやってきましたので、さっさと進むことにしましょう。サンタナキアのところをやったせいか、自分の中で「もうクライマックス!」という気分で一杯で、ガンガン進めたくなってきました。やっぱり、あそこが一番好きなので。


 ただ、ナサリリスのところは彼女の能力が面白いので、ちょっとだけ戦闘もクローズアップされますけど。クライマックスはどれも総じてシリアスな中で、彼女のところだけがギャグパートになりつつあります。エイゾウムと同じ枠組みであるのが哀しい限りですが、それだけ個性的ということで。


 それに、冷美たる糾弾が終わったら、「剣王と剣聖」「鬼たる覇獣」で、二人の上位バーンの戦いも決着をつけるので、もう少し戦いは続きます。どれもこれもクライマックスなので楽しい限りです。


 ここらで、徐々にバーンの本当の強さが際立ってきますね・・・。オロクカカは災難でしたし、ユニサンはもともとバーン序列外なので、本当の強さというのは、まだ見せていない状態です。それがクライマックスで一部出る感じですかね。


 そこで、最後に志郎とエリスの話を入れたら、第四部は終わりです。今月中は・・・どうでしょう。ちょっと厳しいかな。月末前からは絵の仕事をするので、書き溜めておくのが一番ですが、まだ不明です。


 そういえば、イラストレーターの仕事を、また少し復活しようかと考えました。・・・が、やっぱり十二英雄伝のほうが大切なので、今はまだやめておきましょう。しかしまあ、どんどん絵に自信がなくなっていきますね。(描かないから)


 ただ、趣味で続けていくぶんにはいいかな、と。いや一応、まだ職業名はイラストレーターなのですが、ほぼ詐欺なので、少し活動したほうがいいかなと思った次第です。


 そんな感じです。
 ではまた!









WEB小説。自己犠牲と信念、自負

 WEB小説を利用し始めて、まだ二年半弱しか経っていないので、あまり確かなことは言えないのですが、どうやら途中で消えていく(更新されない)ものが多いようです。


 まあたしかに、私自身も何度か中断をはさみましたし、趣味でやっている場合はなかなか続かないこともありますよね。私だって、仮に仕事でなければゲームなんてやれなかったですし、作り続けることは不可能でした。


 しかもWEB小説ってのは、かなり差がはっきり出るような気もします。注目されないものは、とことんされないようです。それで続けていくには、相当な信念が必要です。


 多くの場合は、「もしかしたら、これを仕事に~」という欲求からやる気が生まれるかもしれません。私が学生時代のモチベーションは、常にそれでした。で、それが叶ったら、今度は「もっと売れるために」になるわけですが、それもまた長くは続かないものでしょう。それが続くのは、やはりほんの一握りでしょうし。


 さらに今述べたように、趣味で続けていく場合は、仕事よりも大きなモチベーションと意思の力が必要になるわけです。それを維持するのが難しいのは、とても理解できます。


 でも、よくよく考えれば、こうした【外的な要素】って、べつに必須のものではないことがわかるはずです。


 偉大なる力というのは、外的な要素、つまりはお金や名声に左右されないものです。仮にその二つが世界から消えた場合、土俵に残るのは「どれが一番、自分にとって心を揺さぶられるものか」という内容だけです。


 さらに、それをまた外的な要素である「不特定多数の人間による支持」に頼ってしまうと、結局人気というものはさして価値がないものなので、常に移り変わる世界でモチベーションを保つことなど不可能になります。


 であれば、最後に残るのは、信念。


 純粋な意味での自己犠牲であり、自己が生きる意味を、自分自身が見いだすことが一番大切になります。


 これはただの自己満足ではありません。私個人は、自己満足こそ最高のモチベーションだと思いますが、そこには「今の世界にとって、それが必要であるから作っている」という自負があります。


 ただそれを、これ見よがしに言わないことが美徳だと思っているので、ただ黙って淡々と作業に励むのです。ならば、それだけで十分な対価であるともいえるわけです。


 大切なことは、自分が世の中の役に立っているという確信であり、それによる最低限の自尊心の拡充であり、それを強く信じるための信仰、あるいは意思の力です。


 そして、そうした現実世界の環境条件を与えてくれる神の認可


 逆説的にいえば、現在の環境で制作が続けられているのならば、それは神が許可したと同じことなのです。実際のところ、必要なのは続ける意思だけです。自分が本当に社会にとって必要だと思うことを貫く覚悟と努力、継続力だけです。


 私たちは弱いので、そうした事実を忘れ、ついつい「お金がないから」とか「数字が出ないから」とか言い訳を考えてしまい、継続することから逃げてしまいます。


 それすなわち、闘争からの逃亡です。


 闘い続けることは、痛いし、苦しいし、本当に大変なことです。されど、本質を見た場合、そこにこそすべての価値があります。人間の霊にとって大事なのは、そこの部分だけです。


 最後はすべてを捨てていきます。残るのは、霊の能力だけ。


 ならば、霊の能力である(良い意味での)闘争を続け、自らの魂をぶっ叩いて、ぶっ叩いて、ぶっ叩いて、熱く燃やすしかありません。


 私は、苦しくなると楽しくなります。たとえば、自分が描いているキャラの苦しみを、自分が味わっている気分になるからです。人生には、つらいことも大変なこともありますが、それがあるからこそ喜びが倍増するのです。それでこそ必死に耐えて闘った自分を褒めることができます。


 若いうちは、やはりまだ弱いので、この信念が希薄な状態にあります。自意識過剰なので、他人の視線や意見に左右されてしまうのです。私も年齢を重ね、今の年齢になってようやく信念というものが芽生えてきました。だからわかるのです。


 その戦いは、自己犠牲なのだと。


 その闘争は、自己を鍛えるためのものなのだと。


 見返りがないものほど、霊にとって価値が高くなります。大変な環境条件で耐えたからです。燃えたからです。貫いたからです。


 そこに価値を見いだせば、なんとか続けていくことができると思います。もちろん、簡単にやれるとは言いません。難しいことです。ですが、だからこそ価値があるのです。


 本気で戦い、闘った結果、自己犠牲が少しずつ身につきます。全力で闘うことで、自己に自信が宿り、そのある種の達観と満足感によって、自己を滅して他者に尽くすことを可能とするからです。


 ですから、私たちは魂を燃やして生きねばならないのです。



 されど、多くの人は物的な環境に怯えています。それが神によって支配されていることを知らないので、常に怯えています。それによって感受性を失ってしまいます。


 だから、魂の声が聴こえないのです。



 私は自己満足と信念、自負によって生きれば、けっして後悔しないと思います。


 物的なことを求めて激しく後悔したことはあれ、そうした信念を求めて後悔したことは、一度たりともないからです。