哀れみ
ここ一週間でまた成長できた気がします。
私自身もこうして静養するまでは忙しい日々が続いておりまして、ついつい神経が高ぶって愛から離れていました。
愛は最高の力ですが、肉体が疲れていたり心が乱れていると力を失ってしまいます。
こうしてまた再び愛を感じられた、今まで以上に愛に対しての感覚が増したのは嬉しい限りです。
そうなったのも、私の中でまた一つ未熟な要素がなくなったからです。
私自身は気がついていなかったところで大きなマイナス要素がありました。
ふと何かのきっかけで、もしそのままだったらどうなるかの未来のビジョンが見えたのです。
それがあまりに悲惨すぎて、哀しくて、絶対に耐えられるものではないと知りました。
そう思った時、何があっても愛さねばならないと強く思いました。
敵を愛するのは難しいことです。
それが単純な敵ならばまだわかりやすいですが、家族の無理解などもみなさんを苦しめる大きな要素だと思います。
そうしたものも愛せるかどうか。
私は今まで確かに調和を維持していましたが、それはテクニックで維持していただけです。
カーネギーや心理学などの知識で「こうすれば相手はこう動く」ことを知っていて、実際にその通りになりますので、厄介な人に接する時に上手く対処していたにすぎません。
そこに愛はありませんでした。
しかし、こうして愛を感じた時、愛そうと思った時、純粋なまでに相手の笑顔や喜びを願うようになります。
また同時に、地上の人間に対する哀れみを強く感じるようになりました。
多くの人があまりにも病気であること、心の病、霊的な病を患っていることに対して本当にかわいそうだと思ったのです。
あまりに哀れで涙を流すほどに。
一見すればそうは見えないでしょう。
あの人はお金もあって生活に不自由していない。どこがかわいそうなんだ? と思うかもしれません。
ですが、その人そのものや周りをよくよく見てみれば、すでに心の病が物質化していることがわかるでしょう。
外傷や腫瘍のように明らかに見た目でわかる人もいますし、子供がいない家庭や空気が悪い家庭など、注意して見ないとわからない人もいます。
これらのすべては心から生まれています。
心の中の痛みや恐怖がそうした環境を生み出しているのです。
どんな人であっても地上で生きている人間の中に病気でない人はいません。
何かしらに問題があるからこそ地上で体験を積んでいるわけです。
霊界の人間が我々を見る時、こうした哀れみを抱く気持ちがよくわかりました。
本当につらいです。
きっと私も彼らから見れば同じく哀れに見えるのでしょう。
私もまた自身の問題を知っています。
自己憐憫の情があまりないので自分では意識していませんが、きっとそうなのでしょう。
だからこそ、 愛せるのです。
自分を攻撃する人がいても、敵であっても、相手もまた病気に苦しむ人間であり、毎日苦しんでいることを思えばこそ赦せるものです。
だからこそ幸せを願うことができます。
そもそも相手を攻撃するのは病んでいるからです。
すべての問題は自分の中にあるのです。
同時に神の愛に感動しています。
私がいつも涙を流すほど感動するのは、神の愛のあまりの大きさと深さに対してです。
神は我々に再生というチャンスをくださいました。
何度でもやり直させてくれる。
物的に再生せずとも同じなのです。
生命は死なないので、何度でもチャンスが与えられます。
この痛みや苦しみが愛に変わること。
こうした経験がなければ愛を知ることができないこと、そうしたことに感動するのです。
この体験を与えてくれた神に胸がいっぱいになります。
やはり今までの経験でいえば、愛を維持するには疲れないことが一番重要だと思います。
肉体と魂(霊体)はつながっているので、お互いに影響しあいます。
疲れて精神が過敏になると魂の発露がうまくできないのです。
それによって霊からの指導も絶え絶えになってしまいます。
私たちの生活スタイルがあまりに慌ただしいのです。
私のようにほとんど好き勝手やっている人間でさえ慌ただしいのですから、今の日本の社会が抱える病を強く感じました。
日本は精神的な病を患っています。
それもまた進化の一つのパターンなので、これを乗り越えることで新たなステージに入れるはずです。
愛してください。
優しくしてあげてください。
あなたが相手に攻撃しても何も変わりません。むしろそれが自分に返ってくるだけです。
誰もが大変な道を歩む仲間なのですから、優しくしてあげてください。