園島義船、ぷるっと企画の活動日誌DX

ぷるっと企画の活動日誌。
漫画、イラスト、ゲーム、小説の情報を掲載。
http://puruttokikaku.com/

慈善の例

昨日慈善の話をちょっとしていたら、
ACLの浦和と浦項との試合でちょっと騒動があったようなので
これはいい事例かと思ってちょっと取り上げてみます。
昨日言ったことがそのまま適用できます。


韓国人選手の「許されない行為」で乱闘寸前に


記事を見てもらえれば概要はわかりますが、
挑発込み?のゴミ捨てってところでしょうか。
さて、昨日批判には反論しないほうが賢いと言ったものが
そのままダイレクトに出ていますね。
ここで重要なのは、


こうしたらどうなるかを予測できる能力


が必要だということです。
今回の場合は彼らもまだ若いということと、
極限まで闘ったあとで神経が過敏になっていたために起こったものですが、
常に自己統御というものを心がける重要性を思い知らされます。


まずどんな悪行であろうと直接的な注意、特に衝撃的な注意は逆効果です。
これは霊訓にも書いてありますし、人生訓の本にも載っています。
なぜかといえば、人間の潜在意識が防衛態勢を取ってしまうとお手上げだからです。

どんな正論であっても聞き入れることはありませんし、
むしろ正論であればあるほど相手が認めることはできなくなります。
これは問題のある人ほど強い傾向にあります。
悪人という言い方は問題がありますが、何事もそうした人ほど自己を正当化して受け入れないものです。


すべては人間性に起因するのですが、やはり社会によって総合的な文化レベルがあり、
レベルが低い国家の社会に暮らしていると、どうしても低い影響を受けます。
日本でも問題のある文化は多いですが、
中国や韓国ではさらに文化のレベルが下がるところもあるでしょう。
中国の話を聞いていると、彼らの大半はそれが悪いことを知りません。
理解できていないのです。そこに認識のずれが生じます。
何事もそのレベルに達するまで理解できないもので、
それが当然のことのように行ってしまいます。
食肉だって、それが動物を殺しているものであるのに
平然と食べている人が大勢いるはずです。そこに罪悪感はありません。
理解するレベルにまで至っていないからです。
その一方、自分のペットが死ぬと泣きます。この矛盾にも気がつきません。


では、相手への注意が無意味であるのならばどうすればいいのか。
仮にこの記事の場合ですと、
それが問題のあるものならばひっそりと拾って捨てればよいのです。
特に相手に注意をしたりする必要はありません。
もし選手が拾えば角が立つのならば、用務員の人にひっそりと
後で拾っておいてくださいと言えばよいでしょう。
捨ててしまってよいかわからない場合は、これもひっそりと確認を取ればよいです。
そのほうがよほど子供には良い影響を与えます。


問題は、そこで騒ぎになれば翌日の新聞などで色々と書かれることです。
実際に韓国人というところが強調されてしまい、事が大きくなってしまっています。
どんな正論であっても、こうした事態が予測されるのならばできる限り穏便に事を進めねばなりません。
相手が悪かろうと仮に本当に悪人であろうと、相手を辱める行為をしてはいけません。
公衆の面前で行えば相手は恥ずかしさから受け入れることができなくなってしまいます。


浦和側は自分が正しいことは間違いないと考えているでしょう。
実際にそうなんでしょう。
ただ、そういう場合こそ気をつけねばなりません。
自分が正しいと思っている時ほど、相手への注意には気を使わないと
逆に相手側の進化が遅れてしまうことになります。
その責任を負わねばならなくなるのです。


では、悪人側は裁かなくていいのか、と思われるでしょう。
もしどうしても直接的に注意をしなくてはいけない場合は、
カーネギーの人を動かすにありますように、遠まわしに注意を与えねばなりません。
難しいでしょうが「あれ? 落としましたよ」とかから言うしかないでしょうね。

笑顔でね。心から好意と愛情を持って接しないと駄目です。
ただ、記事の場合は確実に相手が興奮した状態ですから触れないほうが賢明です。
そうした精神状態ではないのですから結果は目に見えています。


こうした慈善が成立するのは、いつも言っている因果律があるからです。
何か問題がある行為をした場合は間違いなく自分に返ってきます。
迷惑をかけたならば、将来、何年後か何十年後か、あるいは死後か、
どのみちいつかは自分が同じようなことをされて不快な思いをすることになります。
今度はそこで自分が激怒して騒動になって痛い目に遭ったり
散々なことになってうんざりして、そこでようやく
「ああ、あの時は自分に問題があったのだ」と気がつきます。


まあ、それに気がつくということ自体が難しいわけで、
それまでには何度も自己防衛、つまりは「あいつが悪い。自分は悪くない」
といったことを繰り返して痛みを受け、
あまりの痛みが続くことに耐えかねて
「何かおかしい。何でこんなことばかり起きるんだ。何か方法があるんじゃないのか」
と調べるようになります。
そうしてカーネギーの本や霊訓に到達して、ああすればよかったのかと気がつきます。


重要なのは善を社会の当たり前のことにすることです。
そうすると今まで悪行を働いてきた人は生きづらくなっていきます。
ゴミを捨てても周囲の人が静かに拾っていくのを見て
だんだんといたたまれなくなったり、恥ずかしくなっていくのです。
どんな人であっても魂は神の愛によって作られています。
よって、人間は自然と愛ある神に近づこうという欲求が起こり、
結果として進化したいと思うようになります。
どんなに自己防衛をしてきた人でも、いつかは「変わりたい」と願うものなのです。


この前たまたま朝の番組で、ショットガンで子供を脅す(教育?)する親が話題になっていましたが、彼女は最後に言いました。
「子供たちを助けたかった。今でもどうすればよいのかわからなかった」
と言っていました。
そうなのです。誰もが想いは同じ。されどやり方を知らないのです。


実際に慈善のやり方を知ったとき、私もちょっとショックを受けました。
「ええ? そんな回りくどいことをしないといけないの?
 そいつが悪いんだったらはっきりと言ったほうがいいよ」
とね。
誰だってそう思うでしょう。
でも、これじゃ永遠に進まないんです。
前に進むには嫌でも正しい方法を選ばねばならないのです。

それはまるで経済と同じです。
自分の利益だけを考えて動いていけば結果的に損をする。
利益をあげたいのならばまず相手に与える。これを知ることと同じなのです。
嫌だろうが結果が出ない以上、結果が出るやり方を選ぶしかありません。
神の法に則らねば何度やっても結果が出ないのです。
しょうがないです。仕方がない。
所詮人間である以上、神に抗うことはできないことを悟る瞬間です。
愛の法に従うしか道はありません。
これに慣れるまでは非常に大変です。とても難しい。
だからこそ慈善には意味があるのです。


簡単にやれるものならば神が評価するはずもありません。


本能が嫌がることだからこそ制御する価値があります。


慈善は本当に難しいと思います。
が、慈善なくして人は神の国に入ることはできません。
さらに進化した霊の話を聞くと、
「本当にそれが慈善なのか」と思うほどのことがあります。
しかし、逆に考えれば、それほど神の愛とは深いものなのだと感じるわけです。
これくらい当然である。
たとえ相手が悪人であろうと、同胞のために身を捨てるなど当たり前なくらいの愛の深さ。
正直私はまだそこまでは到達できていません。
先は長いですね。


というように、どうしても相手に注意が必要な場合はカーネギーを参考にし、
それ以外は自分が淡々と正しいことをすればよいのです。
できるかぎり知られないように。
私も好きでそうしているわけではないのです。
面倒くさいと思うこともありますし、やれやれと思うこともしばしばです。
ですが、すでに述べたようにそうしないと結果が出ないので従っているのです。


何か嫌な思いをした場合は、


ああ、昔の自分もこうして誰かに迷惑をかけたのだな


と反省するのが一番です。
そして、寛容の精神と我慢で受け入れてあげましょう。
人生は順番です。親に迷惑をかけたならば、次は自分が受ける番ということ。
そうやって人はつながって生きているわけです。


もし本当に自分に覚えがないほど立派に生きているのならば、
それはカルマ、かつての因果律であったと思うしかありません。
結局、何年後だろうと何千年後だろうと、
やったことの責任を取るまでは人間は進化できないのです。

そのために神は生まれ変わることを許します。

神が強制するのではないのです。自ら進化するために再生を願うのです。


正直言って、私もまだ地上に慣れません。

いまだに「変な世界だな」と思って暮らしています。

しかし、地上の生活を経なければ進化できないのです。



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