園島義船、ぷるっと企画の活動日誌DX

ぷるっと企画の活動日誌。
漫画、イラスト、ゲーム、小説の情報を掲載。
http://puruttokikaku.com/

反省点

ようやく色々なものが本来の形に戻ってきて、

改めて作品を見直した時に反省点が見えてきました。

そうですね・・・、私はいきなり何かを始めるのが好きなので、あまり準備なくやることが多いです。

そのため設定がね、足りないことがあるんです。


中身の設定はするんですが、外側の設定画のほうがあまりないことが多いです。

単純にこんな感じという漠然としたイメージはありますが、改めてデザインしないと困ることが多いです。

まあ、これは自分の作品ですから適当にやってもいいわけですが、続いていくと逆に手間がかかります。

最初にしっかり決めたほうがいいんですよね。


これからは紙での作業が復活したので気軽にデザインができますので

そうした今まで至らなかった部分もがんばっていきたいと思っています。

うん、自分の作品だと次の話からまったく説明なしに家や髪型が変わることもしばしばありそうです。

というか、ぷる汁5ではそうしようかと思っています。部屋とか家とかの一部ですけどね。

また間取りとかをしっかり考えて構築し直します。


あとは毎日どれくらい時間を使えるかですね。

無理をすると疲れてまた療養になりますので、

今のところ四つの分野で各二つ、八個の企画および作品までが精一杯です。

できれば五つくらいにしたいものです。

現状では少し多い・・・かなぁ。

PCと同じで同時に色々やればそれだけ処理能力が落ちます。

数は少なければ少ないほど力を入れることができるので本当は厳選したいのです。

が、逆説的ですが厳選するほどまだ余裕がないです。

今はとりあえず遅くとも継続する方向が一番かなと思います。

私自身の忍耐力をもっと増す必要もありますしね。

その中で力を蓄えたら厳選して大切なものを優先したいと思います。


余談ですが、自転車のカゴはビビッドレッドにしました。

・・・オッサンが派手なカゴをつけて自転車で走るのはたしかに恥ずかしいです。

が、機能を優先します。

最近はさらに他人の目が気にならなくなりました。

もともと自己の内面を表現することを存在理由にしていたのですが、心を制御して美しく楽しい日々を過ごすとさらにそうなりますね。

それは自己中心的になることではありません。

むしろ触れる人すべてに敬意を払うことになります。


心を広げてみて思い知るのが、いかに今まで狭い中で生きていたのかということです。

誰もが打ち解ければ良い人なのは当然ですよね。

どんな悪党であっても必ず良い部分は存在します。

ただ、今の私たちは自己防衛が先に来ています。

まず自分が傷つかないようにと知らずのうちに硬い態度で接していることが多いです。

最初の反応ってやつですね。

たとえば何かを見た時に思い浮かぶ先入観、綺麗とか汚いとか、あるいは以前誰かが言っていた価値観が浮かんできたりとか、必ず最初に思いこみが発生するのです。

これをできるかぎり減らしていくと、どんな時でも笑顔で柔らかい態度を生み出すことができるようになります。

それは美しい波動ですから、霊の援助だけでなく、人と物と富を呼びます。

自分がどうこうしなくても相手から寄ってくるようになるのです。

雰囲気の良い人に会って心休まれば、またあの人に会いたいと思うものでしょう。


心を自然に解放するのは今の情報社会では難しいことです。

でも、やろうと思えば簡単にできます。

案外、私たちが生きるうえで必要な情報というのは少ないものです。

遠くの国の知らないことでイライラする前に、自分自身と周りを正していく。

そうすることでどんどん世界は改革されていきます。

各個人が同時に、そして総合的に世界を創っているからです。


では、また(o´∀`o)ノ

父親の大動脈瘤の話

父親がレントゲンで影が出たので共済病院で検査したところ

大きめの大動脈瘤があるようで手術するようです。


さて、こうした病気というのは実はありがたいものなのです。

うちの父親は人間としてかなり怠け者でして、

仕事をやっていた頃は真面目で、まあ、真面目だけがとりえみたいな感じでしたが、

基本的に何もしない人なんです。

仕事を辞めてからはずっと家で寝ながらテレビを観ています。

運動もしないし医者から止められているタバコも普通に吸っており(それで前に脳梗塞になりました)


本当にそうなんです。

歩けるのに一日ベッドの上にいてテレビを見て、本当に何もしないのです。

さらにその延長でこうしてまた病気になったようです。

そういえば前は大腸がんにもなっていましたね。

これでは病気にならないほうがおかしいので、当然のことです。


そもそも病気というのは、霊と精神と肉体の不調和から起こります。

食べ物でなる大腸ガンでも、そうした食物を摂取してしまう精神が原因なんです。

何かをやめられないというのも精神的弱さや習慣が制御できないことが原因です。

思考や感情もそうで、チャクラの流れが臓器とつながっているんです。

ですので、特定の悪感情を抱くとこの部分が悪くなる、という傾向がちゃんとあります。


で、こうした病気はもちろんこうした異常によって起こるのですが、

病気はその人の問題点を浮き彫りにしたり、愛を学ぶためのレッスンとして起こります。

もし病気にならねばどうなっていたでしょう。

苦しみや挫折、痛みがなければ普段過った生活をしていても気がつきません。

つらい思いをするから相手の気持ちがわかったり、過去を振り返って

自分を戒めようとします。そうでなければずっと同じ生活をしてしまいます。


この世界は愛によってできています。

愛を学ぶために神様が用意した世界です。

地上の管理を地上の人間に任せていますので、間違えることはできます。

管理者としての責任を放棄して庭を雑草だらけにすることができます。

自分の身体もそうで、健康にすることも病気にすることもできます。

また、健康にするやり方を学ぶために失敗(病気)が必要になることもあります。

そのすべては愛に通じています。

人の過ちすら神は愛を学ばせるために利用するのです。法則を用いて。


また、霊の書などを見ると、生死に関わる危険な目に遭ったりするのは

そうした危機を感じさせて、残り少ない人生に活を入れることを目的とする場合があるようです。

この世界は学びの世界であって、老後だろうが常に学んでいく必要があります。

なぜならば、幽界での生活に備えての準備の世界ですし、

それまでに霊的知識を得ておかないと非常に多くの手間がかかるからです。

それで霊界側も困っているわけです。

無知な人間が来るたびに再教育しないといけない。

たとえるならば、中学校に入学したのに掛け算もできない子がいれば、

また九九から押しえねばならないのに似ています。

それは小学校の科目であって、中学校でやるのはまさに無駄です。

場合によってはまた小学校(地上)に送り戻さねばならないこともあります。

それが再生というものの一つの側面です。


このように病気には非常に多くの価値があります。

すべては愛のレッスンである。

そして、この世界は完全に神によって制御されている。

これが重要な点です。


うん、私もまた進化していますので、こうした状況はまったく気にならないですね。

むしろ穏やかです。

そうそう、海のポスターを買ったんです。

波の音も日々聴いておりますので、これでようやく南国気分で毎日が過ごせます。

そうですね、こんな気楽だと薄情にも聴こえてきますが、

神というシステムに対する理解が深まっていくと、べつに何も気になりません。

なにせ突き詰めてしまえば人間なんて自分のことで精一杯なわけです。

仮に私が病気を治すヒーラーならば話は別ですが、

そうでないのならば日々を幸せに過ごしておくのが一番です。


これにも理由がありまして、不安や恐怖を抱えると霊からの援助が滞るのです。

私は日々成長していく中で、雰囲気というものが実感としてわかるようになってきました。

自分が重苦しい雰囲気を持っているときは、本当の壁のように感じるのです。

「うわっ、たしかにこれじゃ背後霊は近寄れないわ。自分だったら嫌だもん」

と思いますね。

特に不安や敵意などの悪感情は非常に固くて重苦しいです。

普通に生きていても状況は変わらないのならば、

より援助がもらえるほうを選ぶのは至極当然のこと。

援助は物的援助にもつながるので、どうせなら得なほうがいいですよね。


改めて気がつくのですが、


恐怖や不安に日々襲われている人は、恐怖や不安が好きなんです


だから自分で引き寄せています。

しなくてもいい不安な会話をしてまた自分で不安になるのです。

これはナポレオン・ヒルが言っている


貧乏な人は貧乏が好きなのだ


というものと共通しています。

否定するでしょうが、本当に否定できる人はいないはずです。

心から抜け出そうとしてあらゆる努力をするのならば

そうした状況は抜け出せるはずです。

同様に病気も自分の意思でいくらでも治すことができます。


日々思考を制御し、感情を鎮め、常に美しいことを考え、

語る言葉は少なくかつ建設的で前向きで、

すべての行動が人と社会のためにつながるように努力する。

そして神を愛し、祈り、守護霊との交わりを深めていく。


こうしていれば何も怖いものはありません。

時期がくれば神が導いてくれます。


悪いことも考えないといけないと思っている。

これは大きな勘違いです。

困難に立ち向かう必要はあります。が、それはあくまで挑戦としてです。

心が常に神を捉えているならば不安は起こりません。

「難しいな。どうやってやろうかな」とは思っても、とても冷静なのです。


思考を制御するのは難しいことです。

でも、何にしても努力が一番。こうした感情の制御も不断の努力によって統制していくのです。

私もまた日々努力してこうして不安を打ち消すことができるようになりました。

といっても、まだまだですが。死ぬまで続き、死んだあとも修行。

人は永遠に修行です。



自分を楽しむ

今日は休みでしたので、自転車に乗って散策です。

クロスバイクなのですが、前カゴが欲しいなーと思いつつ

さほど使用頻度が高くないので100円ショップで適当に買ったのはいいものの

やっぱり小さすぎて小物しか入りませんw

いや、これ以上大きいのもあったのですが、色がね・・・

ビビットカラー系なんでさすがにオッサンが使うのはどうかと・・・!

結局買い物袋はハンドルに引っさげて帰りました。

あれ? もしかしてカゴいらない? などと思ったのは内緒です。


それと昨日書き忘れたのですが、

好きなものを集めようというタイトルで、好きなものが海と言ったわけですが、

当然海を持ってこれるわけがありません。

そこで海のポスターを買おうと思っております。

部屋を自分の好きなもので埋めたいわけです。

大きくて綺麗なものがあれば心もいつも晴れやかになるでしょう。

が、色々とありすぎて迷ってまだ注文できておりません!(。>ω<)

だってどれも素敵なんですもの。

二時間くらい悩み、まだ悩んでいるので後日に持ち越しです。


毎週水曜日はHPや絵本にあてようと思っており、

とりあえず最初にやらねばならない「ぷるっと企画.com」をオフラインで改装中です。

実はこれ、昨年の夏ごろからやっていながら忙しくて放置されていたので作りかけです。

改めてみると、ごちゃごちゃありすぎているので、すぱっとシンプルにしています。

うん、まあ・・・余計なものができるだけないようにしたほうが見やすいかな、と。

少しずつしか進めないですが、遅くともぷる汁4の販売には合わせます。


と、こんなふうに日々楽しいことをずっとしています。

仕事そのものが楽しいですからね。


より正しく言えば、自分で楽しくしているわけです。


最近気がついたのですが、やっぱりすべては環境なんです。

その環境を改善するために常に楽しみながら考える、これです。


たとえば嫌な仕事があるとしましょう。

あなたはどうしてもそれが嫌だ。

しかし、その嫌という要素を考えていくと、何が嫌なのかが見えてきます。

私でいえば、誰でもそうですがやり直しとかリテイクは嫌ですよね。

普通だと「ああ、嫌だな」と思うのですが、さらに考えていくと

「意思疎通が迅速でないこと」「またPCをつける手間が面倒」などに行き着きます。

そうなんですね。思えばやり直すこと自体はべつになんともないことです。

絵を描くこと自体は簡単なものですからね。

問題はその手段が手間で嫌なんだということがわかってきます。

意思疎通の問題は地上にいる以上は仕方の無い部分がありますが、

このデジタルが発達したご時勢では案外なんとかなるものです。

私もスマホを手に入れてずいぶん楽になりました。返事も即座にできます。

もちろんタブレットでやれていましたが、ワイファイの電波がギリギリなので

そのおっくうさがあったわけです。

それが取り除かれた時、今まで嫌だと思っていたものがそうではなくなりました。


なので、もし嫌なことがあれば何が嫌なのかを考えてみるといいでしょう。

嫌だと思っていることも実は相手の問題ではなく自分の問題であると気がつきます。

上司と合わないなどは非常に難しい問題だと思いますが、

実はそれも自分の受け止め方が変わるとまったく違う状況になるのです。

未熟すぎて困った人というのは実際いるものですが、

そうした人と接して怒ってしまうのならば、あなた自身に余裕がない証拠です。

心の中に真の富を抱くことができれば、「おやおや、彼は余裕がないのですかな」と

ブルジョワ(死語?)のように対応することができます。


また、そうした相手を観察していると、


今自分が困っていること、悩んでいる事柄で相手を攻撃することが多いのです。


これはもう頭の中がそれで一杯なので、自分と相手がまったく違うことを忘れて

相手に対して自分の価値観を当てはめてしまうわけです。

お金に対して心の余裕がない人は、生きるのに十分なお金があってもイライラします。

そして、他人に対して「月50万以上は稼がないと社会人じゃない」とか言ったりします。

でも、それって限度がないんですよ。

今度はその上の人から「たかだか月100万も稼げないのかね、チミィ」とか言われて

また心の余裕をなくすことになってしまうわけです。


言い出したらきりがない


ならば放っておけばいい


のです。

実に簡単な理屈です。


それともう一つの要素がありまして、

たぶん多くの批判はあなた当人への言葉じゃないです。

これも重要なことなのですが、

そうですね、私も何か知らない人から書き込みがあったりして、

それが変な内容というか、意味がよくわからないことがあったりします。

すると、「ああ、この人は別の誰かに怒っているんだな」とわかります。

しかも過去の出来事に対して怒っているのです。


私が常々過去に縛られないほうがいいと言うのは、こうした理由もあるのです。

仮にあなたがニュースやワイドショーで誰かの行動に怒るとすれば、それは違う誰かとの過去の出来事に怒っている可能性が高いです。


その記憶がフラッシュバックしてきて、「そうだ、けしからん!」とか思うのです。

でも、実際は関係ない人ですから言う権利も言われる筋合いもないわけです。


そんなの馬鹿らしいと思いません?

もし理屈を出してしまえば、じゃあこの宇宙を作ったのは誰なんだ?になります。

それはもう神しかいないわけですから、神がこの環境を与えている以上

我々は他人に何も言えないことになります。

お金はもとより、空気や大地、我々の肉体すら神が維持しているものですから。

すべては神が与えているもの。

そして、神というシステムは巨大な愛と進化のシステムである。

この理解が深ければ深いほど心配することがなくなります。

それこそがもっとも重要な点です。


と、そうした話をするのは、自分を楽しんでほしいからですね。

悩みがあると人は休みの日でもそれで頭が一杯になります。

これは本当につらいことですよね。私だって今まではそうでしたし、

今後大きなことが起こればまた悩むでしょう。

でも、自分の好きなことに囲まれているとそのことで頭が一杯になります。

そうした楽しい時間は大切にしてほしいのです。

いや、できれば日々仕事をしている時、相手が何か怒っているときでも

自分の心は美しい世界で満たしてほしいのです。


真面目な人ほど考え込まないといけないような気がしてしまうもの。

真面目な私?もそうでした。

けれど、思えばそんな義務なんてないわけです。

そんな法律があるわけでもないし(あっても無視しますが)

神が決めたわけでもないですから、放っておいていいわけです。


ぜひ、みなさんも毎日心豊かに生きてください。

どうせ悩むなら「自転車のカゴどうすっか」「あの棚をどう改造しようか」

「やべ、海のポスター決まらないよ」とかで悩むと幸せになれます。



ではでは、また!!!