園島義船、ぷるっと企画の活動日誌DX

ぷるっと企画の活動日誌。
漫画、イラスト、ゲーム、小説の情報を掲載。
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WEB小説。自己犠牲と信念、自負

 WEB小説を利用し始めて、まだ二年半弱しか経っていないので、あまり確かなことは言えないのですが、どうやら途中で消えていく(更新されない)ものが多いようです。


 まあたしかに、私自身も何度か中断をはさみましたし、趣味でやっている場合はなかなか続かないこともありますよね。私だって、仮に仕事でなければゲームなんてやれなかったですし、作り続けることは不可能でした。


 しかもWEB小説ってのは、かなり差がはっきり出るような気もします。注目されないものは、とことんされないようです。それで続けていくには、相当な信念が必要です。


 多くの場合は、「もしかしたら、これを仕事に~」という欲求からやる気が生まれるかもしれません。私が学生時代のモチベーションは、常にそれでした。で、それが叶ったら、今度は「もっと売れるために」になるわけですが、それもまた長くは続かないものでしょう。それが続くのは、やはりほんの一握りでしょうし。


 さらに今述べたように、趣味で続けていく場合は、仕事よりも大きなモチベーションと意思の力が必要になるわけです。それを維持するのが難しいのは、とても理解できます。


 でも、よくよく考えれば、こうした【外的な要素】って、べつに必須のものではないことがわかるはずです。


 偉大なる力というのは、外的な要素、つまりはお金や名声に左右されないものです。仮にその二つが世界から消えた場合、土俵に残るのは「どれが一番、自分にとって心を揺さぶられるものか」という内容だけです。


 さらに、それをまた外的な要素である「不特定多数の人間による支持」に頼ってしまうと、結局人気というものはさして価値がないものなので、常に移り変わる世界でモチベーションを保つことなど不可能になります。


 であれば、最後に残るのは、信念。


 純粋な意味での自己犠牲であり、自己が生きる意味を、自分自身が見いだすことが一番大切になります。


 これはただの自己満足ではありません。私個人は、自己満足こそ最高のモチベーションだと思いますが、そこには「今の世界にとって、それが必要であるから作っている」という自負があります。


 ただそれを、これ見よがしに言わないことが美徳だと思っているので、ただ黙って淡々と作業に励むのです。ならば、それだけで十分な対価であるともいえるわけです。


 大切なことは、自分が世の中の役に立っているという確信であり、それによる最低限の自尊心の拡充であり、それを強く信じるための信仰、あるいは意思の力です。


 そして、そうした現実世界の環境条件を与えてくれる神の認可


 逆説的にいえば、現在の環境で制作が続けられているのならば、それは神が許可したと同じことなのです。実際のところ、必要なのは続ける意思だけです。自分が本当に社会にとって必要だと思うことを貫く覚悟と努力、継続力だけです。


 私たちは弱いので、そうした事実を忘れ、ついつい「お金がないから」とか「数字が出ないから」とか言い訳を考えてしまい、継続することから逃げてしまいます。


 それすなわち、闘争からの逃亡です。


 闘い続けることは、痛いし、苦しいし、本当に大変なことです。されど、本質を見た場合、そこにこそすべての価値があります。人間の霊にとって大事なのは、そこの部分だけです。


 最後はすべてを捨てていきます。残るのは、霊の能力だけ。


 ならば、霊の能力である(良い意味での)闘争を続け、自らの魂をぶっ叩いて、ぶっ叩いて、ぶっ叩いて、熱く燃やすしかありません。


 私は、苦しくなると楽しくなります。たとえば、自分が描いているキャラの苦しみを、自分が味わっている気分になるからです。人生には、つらいことも大変なこともありますが、それがあるからこそ喜びが倍増するのです。それでこそ必死に耐えて闘った自分を褒めることができます。


 若いうちは、やはりまだ弱いので、この信念が希薄な状態にあります。自意識過剰なので、他人の視線や意見に左右されてしまうのです。私も年齢を重ね、今の年齢になってようやく信念というものが芽生えてきました。だからわかるのです。


 その戦いは、自己犠牲なのだと。


 その闘争は、自己を鍛えるためのものなのだと。


 見返りがないものほど、霊にとって価値が高くなります。大変な環境条件で耐えたからです。燃えたからです。貫いたからです。


 そこに価値を見いだせば、なんとか続けていくことができると思います。もちろん、簡単にやれるとは言いません。難しいことです。ですが、だからこそ価値があるのです。


 本気で戦い、闘った結果、自己犠牲が少しずつ身につきます。全力で闘うことで、自己に自信が宿り、そのある種の達観と満足感によって、自己を滅して他者に尽くすことを可能とするからです。


 ですから、私たちは魂を燃やして生きねばならないのです。



 されど、多くの人は物的な環境に怯えています。それが神によって支配されていることを知らないので、常に怯えています。それによって感受性を失ってしまいます。


 だから、魂の声が聴こえないのです。



 私は自己満足と信念、自負によって生きれば、けっして後悔しないと思います。


 物的なことを求めて激しく後悔したことはあれ、そうした信念を求めて後悔したことは、一度たりともないからです。










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