充電してます
頭の痛みで今月の初旬を苦しんだので、その反動で今はかなり充電しています。強い苦痛の後には必ず同じ程度の愉悦が待っているというのが世界の法則。ご多分に漏れず、私もそうした時期を過ごしています。
それはただ単に身体的なことではなく、作品においてもそうです。自分の作品は一時休眠状態にして、外部からさまざまな刺激や情報を取り入れます。こうしないと硬直化が起こってしまい、作品から弾力が失われるからですね。
で、一番楽なのがアニメを見ること。せっかく定額サービスに入っているのに普段はまるで見る暇ないので、こういうときに一気見しています。しかも最近の作品というよりは、15年以上昔の、私が大学生くらいにやっていた作品が多いですかね。
べつに意識してネタを補充しているわけではありません。それだと見ていてつまらなくなるので、今はできるだけ何も考えずに作品を楽しむようにしています。しかし、それでいながら人間の頭というのはすごいもので、すべての情報はすべて蓄積されており、ふとしたことで無意識下で情報を引き出して新しいアイデアが閃くものなのです。
若い頃はこうした充電期間を意識する余裕がありませんでした。それもまたお金に起因するものですが、仮に貯金が何百万もあってもそうした焦りは消えなかったですね。それだけ人生経験が少なかったともいえます。
急ぐことは時に必要ですが、やはり焦ってしまっては良い結果が生まれません。焦りは必ず心に隙を作ってしまいます。
では、どうすれば心に余裕を作ることができるかといえば、
人生を地上で一区切りにしないこと
と言えるでしょう。
それはつまり、人生とはとてもとても長い永遠の霊の人生である、ということです。
具体的には、たしかに私たちには各々に地上でやるべき仕事というものがありますが、それはけっして地上だけで終わるわけではないのです。
たとえば大切な仕事の途中で死んでしまっても、その仕事を完遂させるために代理の人間、自分が死んだ後でも同じような仕事をしている人を援助することで、自分の仕事の続きをすることができるのです。
今まで観察してきた結果としては、人は必ずしも決まった時に死ぬわけではありません。寿命そのものは決められていますが、予定されていない時期に死ぬことも多いものです。その多くは自分の不注意や不摂生によるものであっても、それが事実起こるものであれば、その覚悟を決めておくしかありません。
頭の痛みが死ぬほど痛かったので思ったわけではないですが、私はいつも死ぬ覚悟を決めて生きています。生きるうえで死を覚悟し始めたのは中学生の頃ですが、こうした何かが起こったときは、「さて、今死んで後悔はないか?」と自問することにしています。
そうして自問した結果、少なくとも後悔はなかったです。
なぜならば、自分の行動原理が常に自己の目的とともにあったからです。
私自身は自己評価が低いらしく、死を覚悟する場合はたいてい「結局、たいした作品は作れなかったな」と思うわけですが、かといって後悔しているわけではありません。そのつど目的をもってそれを作ったことを改めて思い出し、それなりに頑張ったとは思い直すようにしています。また、それが事実でしょう。
同時に、自分ならばもっと良い作品を作れるという自信もみなぎってきます。自分の目的は地上で有名になることではなく、地位を得ることでもありません。それは結局、創作を続けるための手段と口実にすぎず、作品さえ作っていられればまったくもって無名でかまわないと思っています。
強く願うのは、読んだ人に熱を伝えること
これに尽きます。
私たちがいまだ時代劇や戦国時代の物語に夢中になるのは、そこに現在では失われた情熱があるからです。美しいものがあるからです。当然、そのすべてを受け入れる必要はありませんが、その中に思い出すべき大切な熱があるからです。私はそれをどうしても表現したいのです。
作品が面白く感じないのは歳を取ったせいだと思っていました。が、面白い作品を見れば心は熱くなります。ならば、今の時代が忘れた何かが昔にはあったのでしょう。良いものは伝えなければなりません。
私が十二英雄伝あるいは燃焼系を作り続ける理由は、そこに尽きるのかもしれません。
といってもこの作品、正直まだ面白くはありません。まだまだ熟成期間が足りないからです。私の作品の最大の特徴は、続けば続くほど面白くなることだと思っているので、これからもっともっと面白くなるはずです。この充電期間も、そのためのもの。この積み重ねが作品をさらに成熟させていくことでしょう。
と、相変わらず話がころころ変わって駄文が続くということに。思いつくままに文章を綴っているのであまり気にしないでください。何も考えていないだけです。
ではまた。