潜在意識を傷つける哀しさ
ふと、気づきました。
もしかしたら潜在意識を痛めつけているのかもしれない、と。
シルバーバーチの本にも潜在意識は精神のコントロールルームとありますし、さまざまビジネス本でも道具のように書いてあります。
ですので、潜在意識をどう扱ってもよいのだ 思っていました。
まさに自分の道具のように。
潜在意識は重要な要素です。
たしかにお金や勉強に関しても強い意識付けができますし、実際にその通りになります。
それを植え付けるわけですから、それしか見えなくなるわけです。
となれば、もうそこに集中するしかないので、必然的に願いが叶うことになります。
それに伴って意思の力、精神の力も使っているのでしょう。
ですが、それがすべて正しいとは限らないのです。
むしろ欲望に根ざしたものならば、手段は正しくても目的が正しくないことになります。
精神はあくまでサイキックであって、スピリチュアルではないのです。
ホ・オポノポノ(ハワイの問題解決方法)を見て、潜在意識(ウニヒピリ)の虐待という概念を知りました。
ここ一年、目標を決めて動いてきて、日々潜在意識に植え付けててそれなりにやってきましたが、それで私は幸せだったのでしょうか。
忍耐は身についた。生活も多少改善できた。
でも、みっちり時間に追われる生活で、花を愛でる時間がどれほどあったでしょうか。
どれだけ愛することができたでしょうか。
私が求めているのはそうしたものだったのか。
そう考えると、そもそもの目標が潜在意識にとって苦痛だったのではないかと思えてきます。
事実、私は苦しかった。痛かった。
僕はね、みんなに楽しんでほしいだけなんだ。
ただ愛することを素直に表現して、自由に羽ばたいて、誰かの役に立ちたい。
勇気や希望を与えたい。愛を伝えたい。
そのために反発が必要なことも知っている。
でも、そうした成長する困難と、誤った地上的成功のために費やす無意味な労力は別なんだってこと。
アラン・カルデックの本にも霊人からの言葉があります。
地上の人間は自分たちが勝手に作り出した仕事を大切だと思いこんで、それが社会のために必要だと平気で他人を犠牲にする。自分で無駄な仕事を作り忙しくして疲れきる。なんと愚かなことでしょう。
と、そんなニュアンスです。
何が幸せなのか。
どうあることが自分にとって素晴らしいことなのか。
その根本的な見直しをまたしたいと思っています。
何かを成すためのスケジュール調整のやり方はたしかに必要です。これは役立ちます。
でも、潜在意識をどう使うかの責任も問われることを知らねばなりません。
神は道具をどう使うかは人間に任せています。
それは最終的に使った人間が責任を取るから自由なのです。
潜在意識によって人は自分が植え付けた通りの人間になります。
こうした技術で霊力は高まっても、肝心の霊性の部分、愛するということができなければ意味がないのです。
実業家や裁判官といった人間が平気で地獄にいる様を見ればすぐにわかることです。
新しい目標を作ります。
それが愛に根ざしたものであるか自分に問いながら。